ヒューム 因果律

  このレポートでは、 ヒュームにおける因果律の否定について扱い、 因果律の否定とはどういうことなのかということを明らかにするこ とを主題にする。因果律の否定とはどういうことなのか。

 まず、 事実に関する推理は全て因果関係に基づいていることを理解してお く必要がある。「こういった原因があったからこうなったのだ」 というものだ。 因果関係によってのみ我々は記憶と感覚の明証を超えて進むことが できる。因果関係を把握できるからこそ、 我々は様々なことを認知できるし、またそこから得た認識を応用・ 活用して、 新たな発明や不可解な現象の解明などを行うことができる。 そしてヒュームは原因と結果との間には必然的結合があると主張し 、それは何に由来するのかと思索する。 ここで興味深いのはヒュームは独立した事実問題のあいだに一つの 論理的関係があるというのを否定することだろう。 これは先ほど述べた「 ヒュームは原因と結果との間には必然的結合があり」 と矛盾するものではない。必然的結合とは「〜したら必ず〜 になる」という一連の流れの必然性を表すことではなく、 むしろ我々が「〜したら必ず〜になる」 という認知のことを指している。では、 ヒュームは何を主張しているのだろうか。 ヒュームは因果関係が存在しないことを主張しているのではない。 ヒュームの論旨は因果関係は論理的な関係ではなく、 自然な関係なのであるということだ。 ではこれは一体どういうことなのだろうか。 因果関係とはある事象がある事象を引き起こすという一連の流れで あり、それがなぜ論理的な関係たりえないのだろうか。おそらく、 例えばビリヤードの球がもう一つの球に真っ直ぐに動いているとい う前提からは、 最初の球の運動と衝撃から第二に球の運動を推論することは不可能 であることからわかるだろう。不可能であるのは厳密に言えば、 そこで起きるのは全て、 時空関係における一連の変化に過ぎないからだ。 キューの動きと同時に起こる競技者の腕の動きがあり、 キューと球が空間的に接触する瞬間、 そして球がもう一つの球と空間的に接触する瞬間、 最後に競技者がキャノンに成功したのなら最初の球と第三の球が空 間的に接触する瞬間だけなのだ。この過程の全体には、 力能や力や必然的結合と呼ばれる言葉が与えられることを必要とす るような関係は存在しない。物理的事象の連続、 物理的特性の結合であるかを問わず、 他にどのような例を持ち出したところで同じことが当てはまる。 つまり、どういった対象でも、それ自体として考察すれば、 どの対象も、 その対象を超えて結論を導き出す理由を提供できない、 我々は過去の経験から推論しているのであるということだ。 ヒュームは

(1)「 互いに隔たった対象が結果を生じ合うようにみえることがあるかも しれないが、しかしよく調べてみると、普通そんな場合には、 いくつかの原因の連鎖が隔った対象のあいだをつないでいるのであ って、これら一連の原因は互いに隣接し、 また両端は隔っている当の対象とも隣接さているのがわかる。」

と述べている。 これが因果律が論理的なものではなくどうしても自然のものであら ざるをえないということだ。「いや、そうではない、 それは解剖学的にも明らかだ、物理学的に明らかだ」 と答えるのは問題ではないことを抑えておく必要がある。 というのも事実問題から事実問題への真実の確信の移り変わりのプ ロセスが問題であり、 そこに解剖学や物理学は答えを出さないからである。 それに解剖学や物理学、なんでもいいが、 全ては力能の行使の経験にしかすぎない。 そして経験は一般化しえない。 というのも私自身の特定行動の記述が、 私がそのような経験をした事実からは、 私がその行動を繰り返そうと努めた時、 私が同じ経験をもつだろうとか、 同じ結果を実際に達成するだろうといいうことは決して生じないの である。二つの行為のあいだにはなんの論理的結合もないから、 他方の本性については依然として何も伝えないだろう。 我々の別個な知覚はすべて別個の存在であり、 そしてその別個の存在の真の結合を我々は何も知覚しない。「〜 したから〜だ」というのは、必然なのではなく、 我々の経験の積み重ねによる習慣で、 そこから信念を獲得しているのである。つまりくりかえすが、 人の認知のメカニズムは帰納法的であらざるを得ない、 論理ではないという意味であり、 このようなヒュームの因果律の否定にあたる指摘はとてつもなく革 命的なものだ。

 ヒュームの原因と結果との間には必然的結合があり、 それは何に由来するのかと思索して行き着いた回答はこれだけでは ない。

 次にヒュームが考えたのは、 存在し始めるものはすべて存在の原因を必然的に持つと言われるの はなぜかということである。 例えばニワトリが生まれるのはニワトリの親がいるからというよう なものだ。しかしなぜ、 こうした因果推論が行われるのであろうか? ヒュームの指摘によれば、この問題の普遍的因果律が、 直観的にも論証的にも真なる命題ではない。例えば、 これまで観察されたカラスは全て黒かったという過去の経験から、 これから見るカラスも黒いと論理的に推論するためには、 過去に観察された規則性は未来においても成立するであろういう一 様性の原理が前提されなければいけない。 しかし、 一様性の原理の証明は知識か蓋然性のいずれかに拠らねばならない 。ところが、一様性の原理は、 それを否定しても矛盾ではないから、 論証的には真なる命題ではない。他方、 蓋然的議論がその原理を証明できない。なぜなら、 蓋然的な議論は全て一様性の原理に基づいており、 蓋然的な議論は、循環に陥ることなしに、 一様性の原理を証明できない。

しかし勘違いしてはいけないのだが、 ヒュームはここでそうした原理の否定が真であると主張したいわけ ではない。ジョン・ステュアート宛と推測される手紙でヒュームは

(2)「 何らかのものが原因なしに生じうるというような不合理な命題を私 は決して断言しませんでした。私が主張しましたのはただ、 この命題が偽であるという我々の確信は直感からも論証からもくる ものではなくて別の源泉からくる、ということなのです。」

ということを述べている。ヒュームが問題にしているのは、「 何らかのものが原因なしに生じうる」 という命題を我々はどういった根拠を持って偽だとしているのかと いうことであり、つまり因果推論、 もしくは因果信念のメカニズムを解明しようとしているのである。

 ヒューム にとってはこの世に偶運なるものはない。 偶運とは原因の否定であるからだ。偶然、なにかが発生した、 起きたなどということはあり得ず、 何かしらの原因があるからこそ、結果が生まれる。 いきなり天変地異であったり、 超常現象が起きることはないのである。だかしかし、 原因の無知ゆえに様々な蓋然的信念を生むこともある。 原因が何であるか全くわからない、知らない場合、 そこから導きだされる結果が全く不可解だと感じられても疑問はな い。 それは地震や雷が起きるメカニズムを知らない時代の人々がそうし た自然現象を神的なものだと考えたのと同様であり、 それはなんらおかしいことではない。 また記憶印象の生気や推論の長さなどが信念に影響を及ぼすことが ある。さらに十分な数の恒常的連接の経験ないし観察は、 心のうちに新しい印象を生むことがある。何十回、 何百回と行った実験や経験がある一定の成果、 もしくは現象を引き起こした場合、 そこに原因と結果に対する必然性がなくともまるで当然のように感 じられるのも新しい印象の1つであるだろう。 曇りの日に外出して、 たまたま雨が降らなかったことを何度も何度も経験していくうちに 、「曇りの日は雨が降らない」 という誤った印象を持つこともそうしたことだと言える。

 ところで、 現代の科学哲学では規則性をもって因果の十分条件とする因果論を ヒューム的因果説と呼ぶが、 これは厳密に言えばヒュームの因果説ではない。 ヒュームの関心はくり返すが、自然における因果ではなく、 人間の自然本性における因果信念のメカニズムにあるのである。 それと同時に何を本当の因果関係と見なすかはヒューム にとって最重要の問題である。 ヒュームの立てる仮説真理であることを気づかせるためのもの、 それが「信念とは我々の自然本性の認識的部分というよりも、 感性的部分という方が適切である」という仮説だ。 別の観点から考えれば、どういった原因により、 我々が物体の存在を信じるようになるのかということでもある。 物体の存在について考えた場合、物体が存在するということは、 物体は知覚されていない状態でも存在し続け、 また我々の知覚作用とは独立に、 かつ我々の外部に存在していなくてはいけない。 哲学者は知覚と対象を区別し、対象にのみ、連続存在を認める。 だが、これは想像による虚構だ。 これは心や知覚の問題でも同様で、 心を構成する知覚は互いに別個でありながら分離可能にも関わらず 、我々はそれらに同一性を帰属させる。 それはやはり想像力による虚構に他ならないと言えるだろう。 想像による性質が、偽なる想定に導かれるということは、 堅固で合理的なシステムに到達できないことを意味する。 ではこうした際限のない懐疑を根本的に解決するためにはどうすれ ば良いのだろうか。一体想像による欺きではなく、 確実に正しいことはなんであるのだろうか。 デカルトにおいてこうした際限のない懐疑は「 我思うゆえに我あり」という、 考えている己の存在だけは確実に存在していて、 何者もその瞬間の己の存在を欺くことはできないという形で一つの 回答を出したが、ヒューム においてはどうなのであろうか。「不注意と無頓着」 だけだとヒュームは主張する。つまり、 誤魔化さなければこうした際限のない懐疑を終わらせることはでき ず、結局のところ、確実に何事も疑えないような事柄はなく、 堅固で合理的なシステム体系の形成は実質的に不可能であらざるを えないということである。 このような結論がヒュームの行き着いた哲学の答えだとは思えない 。それは哲学ではなく哲学を放棄しているのではないだろうか。 ヒュームの懐疑論が放棄・中断に辿り着いたわけではなく、 ここからどのような思想を展開し、 考えたのかはこのレポートの扱う主題ではないので、 これ以上の言及をここで控える。

 

(1)David Hume「人性論(1)」(大槻春彦訳) 岩波書店 1995年 p.129

 


(2)中才敏郎「ヒュームの人と思想」和泉書院 2015年p.54

 


A.J.エア著「ヒューム 」篠原久訳

日本経済評論社 1994年

歴史哲学

   このレポートではカントによる歴史の見地について9つの命題を通 じて知ることを目的としている。

我々は歴史から歴史が人間の意志の自由にもとづく種々さまざまな はたらきを全体として考察すると、 この自由の規則正しい発展過程を発見できる、また、 こういう仕方によると、 個々人にあっては驚くほど無規則で混乱しているように見える現象 も、全人類について見れば、人間に本具の根源的素質が、 たとえ緩慢にもせよ絶えず発展している様子を認識できる。 そして世間の人々はもとより世界の諸国民の有様を眺めると、 どの国民もほしいままに他国民に対し、 また個人は個人で他人を相手に、 それぞれ自分の利己的意図の実現を図っている。 人間は動物のように本能に従って行動するものではないが、 だからといって理性的な世界公民のように取り決めた計画に従って 、全体的に行動するものでもない。 計画的な歴史が人間によって作ら得るとは思えない。 しかし人間に関する物事の不合理の経過のなかに、 自然の意図を発見できないだろうか。また、 自分自身の計画を持たないで行動する被造物によっても、 この意図にもとづいて、 自然の一定の計画に従って作られるような歴史が可能ではあるまい か。カントはこうした観点から9つの命題を立てる

 第1命題によれば(1)「 およそ被造物に内具するいっさいの自然的素質は、 いつかはそれぞれの目的に適合しつつ、 あますところなく開展するように定められている。(略) ついに使用されることのないような器官、 その目的を果き得ないような体制は、 目的論的自然論においてはまさに矛盾である。」ということだが、 全ての身体の器官は何かしらの機能を持つのと同様に、 歴史の体制も必ず何かしらの機能や目的を持つというものである。

 第2命題(2)「人間( 地上における唯一の理性的被造物としての)にあっては、 理性の使用を旨とするところの自然的素質があますところなく開展 するのは、類においてであって、個体においてではない。(略) 認識の段階を一段ずつ次第を逐って進展せしめるためには、 さまざまな試みや練習、或いはまた教育を必要とする。」 は人間が理性や認識を発展させるためには、 膨大な時間が必要となり、 それを発展させるために人間は人間を生産し続け、 それを伝えていかなければならならず、 それが行わなければ人間は赤子の児戯と変わらないような行いをし 続けなければならないことになるということだ。

 第3命題(3)「人間が人間に関して欲しているのは、 次の一事である、すなわち ー 人間は、 動物的存在としての機械的体制以上のものはすべて自分自身で作り 出すということ、また人間が本能にかかわりなく、 彼自身の理性によって獲得した幸福、 或いは成熟した完全性以外のものには取り合わない、 ということである。」 は自然が人間に一切のものを自分自身で作り出すことを求め、 生まれたばかりの赤子の生存にとって必要なものだけに限った、 そして人間が自己の理性的価値を認識することが狙いであったとい うことである。

  第4命題(4)「自然が、 人間に与えられている一切の自然的素質を発展せしめるに用いると ころの手段は、 社会においてこれらの素質のあいだに生じる敵対関係にほかならな い、しかしこの敵対関係が、 ひっきょうは社会の合法的秩序を設定する原因となるのである。」 は人間は社会を形成しようとする傾向を持つと同時に社会を分裂さ せるようなところと到るところで結びついている。 それは非社交性でもあり、 社交性とは相反する要素を人間は同時に兼ね備えている。 人間は孤立しようとした時に他者からの抵抗にあい、 それにまた抵抗を試みようとする。 そうした際に行われる抵抗により人は力を覚醒させるのである。 自ら苦痛と勤労の生活に入り、そこから脱出しようてする、 その時に手段を案出するのである。 自然が人間にこのような経過をとらせるのは、 人が非社交性に到るとこで生み出す抵抗の源泉のためである。

 第5命題(5)「自然が人類に解決を迫る最大の問題は、 組織全体に対して法を司掌するような公民的社会を形成することで ある。」 は組織に自由が保たれているがそれゆえにその構成員の間で自由の 限界があり、 そうした他人との自由と共存できる社会においてのみ、 人間の素質の展開が達成される、 そして外的な法律に保護されている自由が、 反抗を許さない権力と、 およそ可能な限り最大の程度に結びついているような社会、 すなわちあくまで公正な公民的体制が、 自然が人間に課した課題なのだ。 人類はこの課題の解決と実現を介してのみ、 人類についてもくろんでいるその他の意図をも達成しえる。

 第6命題(6)「如上の問題は、最も困難であると同時に、 また人類によって最後に解決さるべき課題である。」 の課題は困難を孕む。人間は支配者を必要とする動物だからだ。 人間は全ての人に等しく制限を加えるような法律を希望するが、 動物的な傾向によって、自分だけは特別にしておきたいと考える。 そこで人間は支配者を求めるのである。 だがどんな支配者もやはり同じ人間である以上、 動物的な傾向を持つ。 ゆえにどんな支配者でも法律に従って彼の上に権力を行使するよう な別の支配者を自分の上にもつのでなければ、 やはり自由を濫用するようになる。最高権力者は、 その人自身が正義であると同時に、人間でなければならない。 この種の課題のうちで最も困難な課題であるのはこうしたことから も明らかであろう。 この不可能な課題を自然が人間に課した仕事は、 人間がこの理念に徐々に接近していくということだ。 ではこの課題を解決するのに必要なことはなんであろうか。 それは3つある。 1つは可能な公民的組織の性質に関する正しい認識である。 2つめは幾度か世態の変遷を経て訓練された豊富な経験である。 3つめはかかる組織を受けいれるために準備された善意志である。 だがこれら3つが一致するのは極めて困難ではあるが。

 第7命題(7)「完全な意味での公民的組織を設定する問題は、 諸国家のあいだに外的な合法的関係を創設する問題に従属するもの であるから、後者の解決が実現しなければ、 前者も解決され得ない。」は個々の人達の間に公民的組織、 公共体を組織してみたところで、あまり効果がなく、 国家でいうところの大規模な国際連合的なものも革命に遭遇せざる を得ない。 だから国内においてできる限り最善の公民的組織を設定すると同時 に、対外関係においても諸国家の間に協定や法を制定すれば、 公民的公共体に類し、 機械さながら自己を保存し得るような状態が創設されるだろう。 しかし、このゃうな過程が何遍となく繰り返されたあげく、 その形を永久に保存されるような形態をいつか偶然にも獲得するこ とができるのだろうか。それとも自然は規則正しい経過を経て、 人類を最高の段階に到らしめるのだろうか。 いずれにせよ自然は部分的に合目的ではあるが、 全体としては無目的であるように感じられる。

 第8命題(8)「人類の歴史を全体として考察すると、 自然がその隠微な計画を遂行する過程と見なすことができる、 ところでこの場合に自然の計画というのは、ー 各国家をして国内的に完全であるばかりでなく、 更にこの目的のために対外的にも完全であるような国家組織を設定 するということにほかならない、このような組織こそ自然が、 人類に内在する一切の自然的素質を剰すところなく開展し得る唯一 の状態だからである。」は上記の第7命題からの帰結である。

問題は我々は自然の意図のかかる実現過程を、 我々の経験においていくらかでも発見しているかということである 。カントによればそれは僅かながらにもせよ、 すでに発見している。 人類がそのような意図のままに進んできたところの短い部分的道程 から、全軌道の形状と、 また全体に対する一部との関係とを不確実にしか推論できないのは 仕方ないことだ。 だが世界全体の保全を懸念する諸国家の中には一つの感情が胎動し 始めているとカントは指摘する。 それは世界全般におよぶ公民的状態がら人類に内在する一切の根源 的素質を開展せしめる母体として、 いつかは成立するだろうという期待を抱かせる。

 第9命題(9)「自然の計画の旨とするところは、 全人類のなかに完全な公民的連合を形成せしめるにある。 かかる計画に則って一般世界史を著そうとする試みは、 可能であるばかりでなく、 また自然のかかる意図の実現を促進する企てと見なさざるを得ない 。」は、 もし世界が或る種の理性的目的に従って経過するとしたら、 その世界経過はどのようなものでならなければならないかという構 想に基づいて歴史を著そうとする企てのもと、 歴史を書こうとするなら、小説しかできそうにない。しかし、 自然は人間の自由の働きにすら、 自由の計画と究極的な意図とを反映すると規定するなら、 この構想は役に立つだろう。 ここでカントは決して経験的な見地に立って編まれる本来の修史を 駆逐するつもりはない。カントが意図しているのは、 世界史に対してア・ プリオリな手引きをもつ構想を導入することで、 経験的な立場とは別の観点から歴史に対する一つの立場を築こうと しているのである。 カントのこうした試みは哲学的歴史の著述を試みさせる一つのもの としても役立つだろう。

 こうした以上の命題からカントは、 歴史に対して自然の意図が介在しており、 人々が自然によってもたらされる様々な課題や制約により、 成長し、 完全な社会を形成するに至るのだと考えていることがわかる。 カントの歴史が一般的な歴史観と違うのは起きたことをただ記すの ではなく、 歴史の展開はある種の必然性や意味を含んでいると考えているとこ ろであろう。 そうした必然性や自然の意図に人類が成長して気付くことが重要な のだ。カントのこのように歴史と自然を見る立場は、 ある意味で歴史を物語的に捉えているようなものだと言えるかもし れない。人類が超越的なものに導かれ、 超越的なものが望む社会に人類が至るまでの過程が歴史であるので あれば、それは物語的だ。だが実際のところ、 歴史はそのような物語性を含んだものであるのだろうか。

 


(1)カント「啓蒙とは何か」(篠田英雄訳) 岩波書店 1950年 p.25

(2)同上 p.26

(3)同上 p.27

(4)同上 p.29

(5)同上 p.32

(6)同上 p.33

(7)同上 p.36

(8)同上 p.42

(9)同上 p.45

 


参考文献

 


カント「啓蒙とは何か」(篠田英雄訳) 岩波書店 1950年

人物演習

 このレポートではカントの定言的命法および、仮言的命法、 そしてヒュームとの関係について考察することを目的とする。

 カントは義務に従って行為することを重視していた。 そこで行われる行為が例えカントが良いと考えるものであれ、 実は本来の動機は低劣である可能性がある。 自愛の衝動からであってはいけない。 義務からなされるものでなければいけないのである。 カントが問題とするのは行為が実際になされるかどうかということ ではなく、一切の現象に関わらず、それ自体だけで、 何を為すべきかを命令する信念なのだ。 そこでカントは理性の命令である命法という概念を提唱する。 すべて命法は「べし」という語で表現される。「べし」、 つまり命法が言い聞かせる相手は、あることをするのが善、 しないのが善であると指示されても必ず実行するとは限らないよう な意志に対してである。 そしてカントは命法には二つあると主張する。 それは仮言的命法と定言的命法である。 では仮言的命法と定言的命法とはなんであろうか。 仮言的命法とはカントによれば

(1)「我々が行為そのものとは別に欲している何か或るもの( あるいはそれを欲することが、とにかく可能な何か或るもの) を得るための手段としての可能的行為を実践的に必然的であるとし て提示する。」

ものであり、定言的命法は

(2)「行為を何かほかの目的に関係させずに、 それ自体だけで客観的-必然的であるとして提示する命法」

である。つまり、 ある行為がある別のものを得るための手段としてのみ善ならば仮言 的であり、 それ自体理性に従うような意志において必然ならばそれは定言的で あるといえる。それゆえに仮言的命法は単純に現実的・ 可能的な意図にとって善いと言明するにすぎない。 そして定言的命法は、行為が意図に関わりなく、 行為そのものを必然的であると断言する。 いかなる条件にも制限されないし、絶対的である。 定言的命法こそが本来の命令と呼び変えることもできるだろう。 そこでカントの定言的命法の一つに

(3)「人間ばかりでなく、およそいかなる理性的存在者も、 目的自体として存在する、 すなわちあれこれの意志が任意に使用できるような単なる手段とし てではなく、 自分自身ならびに他の理性的存在者たちに対してなされる行為にお いて、いついかなる場合にも同時に目的と見なされねばならない、 と。」

がある。この定言的命法は「 君に為されるのを欲しないことを他人に為すな」 ということと同じなのだろうか。 これは自愛の原理に基づいたものであり、そこには「 自分が為されたいから相手に為す」という仮言的命法が存在し、 その中に手段化された「他者」がいる。例えば、 人に無下に扱われたくないがために、相手に親切にした場合、 行為そのものは問題なく、 それどころか他者から見た場合善いとされることであったとしても 、 結局は自分が他人から親切に扱われたいという欲望が存在している から仮言的命法なのだ。そしてそのため「 君に為されるのを欲しないことを他人に為すな」 はカントの定言的命法と根本的に違うものなのである。これは、 目的を達成する手段として他者の人格を利用することは尊厳を踏み にじることであり、不正なことであるということだ。 人格には理性能力があるため、絶対的な価値がある。例えば企業・ 会社が従業員に対して残業代を認めない、 過労を強いるという理不尽な行いは、 明らかに利益やコスト削減のために行われていることであり、 企業や会社が従業員を目的ではなく手段としてだけ扱っていること になる。だが、 こうしたことは明らかに批判されるべきであることは理解できるが 、我々は多かれ少なかれ、 このようなことを実際にしているのではないだろうか。 例えば友人に自分の都合が合わないから行列に並んで◯◯ を買ってきてもらうために頼んだり、 自分が休んだ授業のノートのコーピを見せてもらうように頼んだり と。 これは他者を手段として扱っていることにはならないだろうか。 これは相手の合意を持つため、批判されることではない。 カントは全ての人間が互いに人格を目的として共存して人間性への 尊厳をもって結びつく共同社会、すなわち目的の王国を目指した。 カント自身は目的の王国の実現をほぼ不可能だと考えていたが、 大事なのはそれでも我々は限りなく近くまで目的の王国を目指さな ければならない。 カントの目的の王国について論じる前にもう少し定言的命法につい て考える必要がある。

 カントの定言的命法において重要なのは一体どこだろうか。 それは「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」の「 のみならず」というところだろう。柄谷によれば、 労働者は手段でしかなく、資本家によって「目的」 として扱われていない。 そのような点から柄谷はカントの道徳法則には生産関係を変えよと いう要求が含まれていると考える。実際、新カント主義者、 例えばコーエンなど、 カントに社会主義者を見た人間は少なくない。 ここで柄谷は功利主義的なものは資本主義と癒着したものであり、 カントを援用し、功利主義を批判する。 まず功利主義において幸福とは、 利益を仮定して考えなければいけない点を批判する。というのも、 幸福は金ではないがそうしたものを仮定しなければ先に進めないか らである。 そして功利主義にの最大多数の最大幸福を達成するためには未来の 人間がいないことも問題にする。現在の我々の「幸福」、「 最大多数の最大幸福」 にもとづく公共的合意には未来の人間は参与できない。例えば、 産業資本主義の発展が、自然史的に見て、限界に直面している、 厳密に言えばグローバルな環境破壊、エネルギー・ 食料の不足がさしせまっているにも関わらず、 我々は現在の生活水準を維持し、 幸福主義の立場からもそうした発展や維持に対してストップをかけ る具体的な動きが見られない。 倫理学者は未来の他者との間の合意をどのように扱うのか考える立 場もあるが、 カントの幸福主義批判の中には既にそうした問題が扱われている。 カントは自由であるためには、未来の人間、 今ここに存在しない人間を自由たらしめることが要求されると考え ている。生きている者の間に公共的合意が成立しようとしても、 それは倫理的に正しくないのは、我々の「幸福」が、 未来の他者をたんに手段として扱い、 目的として扱っていないからである。 ただここで注意しなければいけないのは、 未来の人間のためにといっても未来の人間はそうした努力に対して 感謝も気付きもないということである。未来の人間は他者であり、 彼らにとって我々も同じく他者でしかないのである。 ただ我々はそうしなければならないのである。

 カントの「永久平和のために」 からもカントの目指した道徳的理念として世界の永久平和がある。 ある意味でカントの目的の王国とは永久平和が実現した社会ではな いだろうか。 厳密に言えば目的の王国に限りなく近づいたものこそが永久的に平 和な世界ではないだろうか。 カントにとって法は道徳の一部であり、 人が充分に道徳的ではないがゆえに法がある。 ゆえに法は道徳性をもっていなければならない。 国家は任意に法律を作ることはできるが、 国家の法が認められるのは、 それが普遍的なものであることを保証しているかぎりにおいてのみ なのである。 この意味でカントの法に対する考え方は国際法的である。 カントの構想した国際法に問題があるのはその違反を制裁する装置 を持っていないことにある。 違反の制裁を国際連邦にカントは求めたがそれはヘーゲルが批判す るように厳しいものであった。

  ところでカントとヒュームの関係とはどういったものであろうか? カントはヒュームを読み、 プロレゴーメナの中で独断のまどろみから目覚めさせられたと語っ ているが、これは一体どういうことなのだろうか。 ここでいう独断のまどろみとは当時カントも学んだドイツで主流の ライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学のことである。 具体的には、 一切の物事は根本原理から論理的必然性によって演繹をおこなって いく合理的認識によって認識することが可能であるという考え方だ 。つまり数学的観念と同様に、神であるとか、世界( 存在するものの全体)であるとか、イデアといった観念も、 理性的観念であるがゆえに、 普遍性と客観的妥当性を持つことができるということだ。 ヒュームは必然的結合といい因果律、 因果関係のもっとも中心的な概念である原因と結果の必然的な結合 が自然の事象をどれだけ観察しても発見することができず、 この観念が人間の想像により生み出されたにすぎない主観的なもの であることを発見した。 それは物理学であろうがなんであろうが説明することはできない。 というのも例えば林檎が木から落ちるのを見て、 真の原因は木の枝が腐っていたからかもしれないにもかかわらず「 林檎の落下は強風が原因である」ということがあるがこれは、 感覚的経験からみる、 人間の主観的な習慣にすぎないということである。 カントはこうしたヒュームによる因果律の否定をうけ、 従来の形而上学を一新しようと考え、また、 こうした革命的なヒュームの発見に対してカントは危機感を覚える 。なぜなら当時も今も、 常識的には自然科学的真理や科学的知識一般は、 客観性や疑うことのできない必然性をもっていると見なされており 、また帰納法的なやり方や観察言語に依拠している限り、 いかに知識の拡大は可能であったとしても、 知識の必然性や普遍性を十分説得的に論じることができないため、 最終的には懐疑主義を生み、学問の根底を覆していく。 カントはこの懐疑主義がやがてはニヒリズムに辿り着くことを予感 していたために危機感を覚えたのである。 そこからカントは上記の問題を課題とし、 人間の理性の活動範囲を批判的に検討すること、そして「 そうしたことは形而上学としてそもそも可能なのか」 という問いをテーマに批判哲学の仕事に取り掛かったのだ。

 


 

 

 

 


 


(1)カント著「道徳形而上学原論」 岩波書店 1967年 p.69
(2)同上 p.69
(3)同上 p.101


 

 


参考文献

 


 

牧野英二著「カントを読む」岩波書店 2003年 


カント著「道徳形而上学原論」 岩波書店 1967年

 

柄谷行人著「倫理21q」平凡社 2003年
 

 

 

 

三島由紀夫と古典劇

 能作品、綾鼓の意義と現在の能作品の受容について三島由紀夫を通して考察する。


 綾鼓では女御に惚れ込んだ老人が鳴るはずのない綾鼓を鳴らすことができれば、女御の姿を見ることができるという内容の作品である。しかしこの作品があまりに残酷なのは綾鼓がどうしても鳴らないというところにある。つまり初めから老人の愛が報われることなく、「不可能」が決定しているのである。老人は死に、怨霊となり、やはり綾鼓を打ち続けるが、当然鳴ることはなく、最後は願いが叶うことはなく池へと消えていく。最初から最後まで存在しているのは否定だけである。この作品の存在意義とは一体なんであろうか。綾鼓では


「そもそも、世の中というものは、万事、禍幸や吉凶がいつ訪れるかわからないものです。年月はあっというまに過ぎてゆくといわれていますが、まさにそのとおりで、時間はどんどん過ぎてゆきます。しかし、わたくしたちが死後に行く所や、また、いつまでの命なのか、それを誰も教えてくれないのは、残念なけとです。世の中がこんなものだとわかっていれば、このように恋などに迷わなかったろうに。」(綾鼓)


といったセリフが登場する。人はいつ幸せに出会うのか、いつ不幸に見舞われるのか、いつ死ぬか、そうしたことは誰にもわからない。必要ではないこと、無駄なこと、虚しいことに勤しんでいる時に死ぬこともあるだろう。それゆえに我々は現在の自分の生き方、行動を見直さなければいけない。そうしたことを感じさせるセリフだと言えるだろう。また怨霊となって現れた老人に女御は


「地獄の刹鬼である獄卒の攻めもこのようなものかと思われるばかりです。しかし、骨をも砕く火車による地獄の呵責もこれほどではあるまい。ああ、恐ろしい。因果とはいえ、わたくしはどうなるのでしょうか。」(綾鼓)


と訴える。それに対して老人は


「このように因果応報ははっきりと現れるものです。それが目のあたりに現れたのです。」(綾鼓)


と答える。不可能である綾の鼓を老人に打たせようとした女御は老人の怨霊に付きまとわれ、疲労困憊し、恐ろしさに疲弊する。それは間違いなく、女御の仕打ちの因果応報である。

 綾鼓の意義とはなんであるか。それは死を見据え、今をどう生きるのかという問題を提起し、また自分の行ったことは必ず自分に返ってくる、因果応報であるということを我々に理解させてくれるところにあると言えるだろう。そうした点から綾鼓は非常に寓話的な物語であり、示唆に溢れた作品であると言える。
ここで日本を代表する作家である三島由紀夫は、否定の物語であり、教訓的な綾鼓から美を見出し、自ら再構築し、さらなる美を表現しようとしたことについて言及したいと思う。

 

三島由紀夫の綾鼓では、向かいの窓に垣間見た身分も年齢も違う貴婦人の華子に、法律事務所の老小使の岩吉が恋をする。だが恋を嘲る、華子の取り巻きの青年たちと、そのからかいを黙認したらしい華子に絶望した岩吉は投身自殺をする。そうしてこの世を去った岩吉は亡霊となり、華子のもとに現れる。そして綾の鼓を鳴らそうと亡霊は鼓を打つのだが、華子に「聞こえない」と言い張られる。だが、能作品の綾鼓と違うのは綾鼓が''鳴る''ということである。しかし絶望的なのはそれが最後まで''聞こえない''と言い張られてしまうことである。また亡霊が消えていく最後に「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさへすれば」という一言が付け加わっていることが注目に値すると言えるだろう。つまり能の綾鼓では最初から最後まで徹底的な否定のみがあったが、三島由紀夫の綾鼓においては、最後に一打ちさえしていればと思わせる、どうにもならないような絶望が存在している。こうした内容は三島由紀夫の綾鼓が能の綾鼓よりも否定的ではないということを意味しない。鳴っていたにも関わらず「聞こえない」と言い張られ、最後には「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさへすれば」と言われる残酷さ、それは実際にあと一回打っていたとしてもおそらく「聞こえない」と言われていたことにある。つまり、聞こえるのは怨霊が消える時であり、あと一打ちは逃げ水のごとく近づくたびに遠ざかり、永遠に聞こえることはないのである。三島由紀夫の綾鼓と能の綾鼓においての否定性の決定的な差異とは、能の綾鼓が「鳴らない綾鼓を鳴らすことができれば」なのに対し、三島由紀夫の綾鼓は「鳴ろうが、鳴らまいが''聞こえる''ことはない」というところにあるのである。そういったことから三島由紀夫の綾鼓はより否定性が徹底された綾鼓であると言えるだろう。ではなぜ三島由紀夫はこうした綾鼓を書いたのであろうか。三島由紀夫の小説「禁色」の中に

 

「…さうして、美とは、いいかね、美とは到達できない此岸なのだ。さうではないか?」(禁色)

 

という文章が登場するが、これは三島由紀夫の美の捉え方だと考えいいだろう。つまり三島由紀夫は能作品綾鼓に美を見出し、現代版を書くことによって更なる美を追求しようと試みたのではないだろうか?こうした三島由紀夫による試みは、本来の能作品の意義と現代の能作品の受容を考える上では注目に値する。


参考文献

著者不明 『綾鼓』

監修 梅原猛観世清和 『翁と観阿弥 能の誕生 』角川学芸出発 2013年

田村景子 『三島由紀夫能楽勉誠出版 2012年

三島由紀夫『禁色』新潮社 1964年

石原吉郎における 「個人と集団」

 

 1942年ソ連内務省軍によって逮捕され、1953年まで強制収容に収監された(注1)詩人、石原吉郎の「個人と集団」の問題ついて考察する。

石原吉郎における単独者の概念について思考する時「ペシミストの勇気」の存在を無視することはできないだろう。ペシミストの勇気とは石原吉郎の友人、鹿野武一について書かれた文章である。収容所では五列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進するようになっており、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなされその場で射殺してもいい規則となっていた。だが実際は逃亡を試みて囚人が射殺されることはなく、ほとんどは行進中につまずくか足を滑らせて、列外へよろめいたために射殺が起こっていたのである。したがって整列時、囚人にとって中間の三列に割り込むことが非常に重要な問題となっていた。だが石原の友人鹿野武一はいかなる場合でも進んで外側の列に並んだのである。石原は鹿野のこうした行動をペシミストの勇気と呼ぶ。石原は鹿野の行為を

 

 

加害と被害という集団的発想からはっきりと自己を隔絶することによって、ペシミストとしての明晰さと精神的自立を獲得したのだと私は考える(望郷と海-ペシミストの勇気)

 

 

と述べている。これを希望を捨てて最悪の場所に進んで選択する勇気という意味で捉えるのは間違いであろう。ペシミストの勇気とはそうした勇気ではなく、あらゆる環境を流動的で平等なもの(ここでは加害と被害の関係が全くの偶然により入れ替わる状況)と見なす勇気のことである。(注2)もっと言えば、加害と被害の流動のなかで、加害者を自己に発見し、衝撃を受けただ一人、何も告発することなく集団を去る、そのうしろ姿こそが勇気の証なのだ。だが石原はそうした勇気は不特定多数の何も救うことはないと言い切る。そこで救われるのは単独者としての自己の位置なのであると。しかし「単独者としての自己の位置を守る」ということは何を意味しているのだろうか。この言葉の意味を理解するには石原吉郎にとって「集団と個人」が一体どのように捉えられているのかを理解する必要があるだろう。
石原吉郎は最後までシベリア抑留の経験を告発することがなかった。それは「連帯において被害を平均化」する告発を石原は避けようとしたからである。

 

 

私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに〈告発〉の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。それは声となることによって、そののっぴきならない真実が一挙にうしなわれ、告発となって顕在化することによって、告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙である。(ペシミストの勇気)

 

 

告発をせず沈黙すること。それが個人が個人であることを保証する最後の砦なのではないだろうか。主体が何者にも語りえない、理解されない出来事を被害の連帯により、告発することで決定的な-それこそ個人の存在と呼んでいい-なにかが失われてしまう。そのことを石原は鋭く捉えていたのではないかと感じる。ペシミストの勇気が「単独者としての自己の位置を守る」ことに繋がるのは、「告発しないことが個人を個人たりうるものにしている」からではないだろうか。
こうしたことから、石原吉郎にとって「個が集団の中に消えていく」ことが重要な問題になっていたのではないかと考える。「確認されない死のなかで」では

 

 

ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することはなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばなければならないものなのだ。(確認されない死のなかで)

 

 

という風に語られており、また「詩と信仰と断念と」の中では

 

 

人間が誰に知られない場所で死ななければならない時、さいごにその人にのこされる希求、どうしようもない願いとは何か、ということであります。おそらくそれは、彼がその死の瞬間まで存在したことを誰かに伝えたいという願いであり、彼がまぎれもない彼として死んだという事実を、誰でもいい、だれかに伝えたいという衝動ではないかと思います。(略) しかも、それを確認させるための手段として、最後に彼に残されたものは彼の姓名だけだという事実ほど救いのない、絶望的なものはないだろうと思います。(詩と信仰と断念と)

 

 

と語られているが、これらも「個が集団の中に消えていく」の問題が間違いなく通奏低音として流れている。数ではなく名を呼ばれなければいけない。それは個が集団の中に消えていく、消されることに対する石原の批判なのではないか。
シベリア抑留や戦争、戦後を通じて石原吉郎が見出した問題。それは集団や安易な連帯の中に消えていく個人を個人たらしめているなにかを問い、思考することではないだろうか。

 

 

注1 石川巧・川口隆行編『戦争を〈読む〉』(ひつじ書房 / 2013年)

 

注2 中島一夫『収容所文学論』(論創社 / 2008年) 媒介と責任

 

参考文献

 

石原吉郎『望郷と海』(みすず書房 / 2012年)

石原吉郎石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫 / 2005年)

中島一夫『収容所文学論』(論創社 / 2008年)

勢古浩爾石原吉郎』(飢餓陣営叢書 / 2013年)

石川巧・川口隆行編『戦争を〈読む〉』(ひつじ書房 / 2013年)

 

衣服の意味

 アダムとイヴとは旧約聖書『創世記』に記された、最初の人間である。この二人をテーマにした芸術作品は数多い。いくつか例を挙げれば、絵画では、ミケランジェロ(1475-1564)による「アダムの創造」と「イヴの創造」(1508-12年、ヴァチカン、システィーナ礼拝堂)やパウロ・ヴェロネーゼ(1528-88)による「イヴの創造」(1572年頃、シカゴ、アート・インスティテュート)、文学では、イギリスの詩人ジョン・ミルトン(1608-74)による「失楽園」(1667年)などがそうだろう。また初期のSF小説にもイヴがモチーフとなったヴィリエ・ド・リラダン(1838-89)の「未来のイヴ」(1886年)などがある。このようなアダムとイヴをテーマやモチーフにした作品は数多く、二人の物語がのちの世界に与えた影響は計り知れない。そうした視点から二人をめぐる物語が、文化、思想、文学・美術作品にいかに多大な影響を及ぼしたかを岡田温司著 アダムとイブ 語り継がれる「中心の神話」は扱っている。


堕落する以前、二人は裸であった。しかし、二人は自分たちが裸であることを恥じることはなかった。


アガンベンによれば二人は裸でありながら裸ではなかったのである。なぜなら二人は神の恩寵という衣服を身に纏っていたからであり、本当の意味で二人が裸になるのは、堕落後である。「恥ずかしさ」が現れるのは、神の衣服である恩恵を奪われた後だが、それではなぜ「恥ずかしさ」が現れたのか。つまり、裸であること=恥ずかしい という図式の成立はどのようにして成立したのであろうか。


「(…)二人の目は開かれていたが、恩寵の衣服のもと何が二人に授けられていたのかを知るほどには、開かれていなかった。なぜなら、意志にたいする器官の反乱を二人は知らなかったからである。ひとたびこの恩寵が失われるや、罪にふさわしい二人の不従順を罰するために、肉体の衝動のなかに新たな淫らさが突如として発生した。このために二人の裸は恥ずべきものとなり、二人はそれを意識し、当惑することになったのである」


アウグスティヌスは「裸=恥ずかしさ」の起源について、恩寵の衣服のもとで欲望や生殖器の制御が支えられていたために、恩寵の衣服がひとたび失われてしまえば、制御は不可能になる、そして二人が欲望や生殖器を制御できなくなったがゆえに裸を恥ずべきものとして認識するに至ったのだと考える。しかし、ここで興味深いのは、アウグスティヌスにとって、恩寵の衣服が包み隠すのは、このような腐敗した本性であるのに対し、大バシレイオスやダマスカスのヨアンネスに代表される東方の伝統においてはその認識が異なる点である。


罪を犯す以前、人間は無為(schole)と充溢の状況のうちに生きていた。じつのところ、目の開かれとは、魂の目の閉ざされを意味しており、さらには、みずからの充溢と至福の状態を、無力の状態として、atechnia、すなわち知の欠如の状態として、知覚することを意味している。したがって、罪が明らかにするものとは、恩寵の衣服に覆われていた、人間本性における欠如や欠陥ではない。反対に、エデンの園の状況を決定づけていた充溢をむしろ欠如として知覚するということ、それこそが、罪によって明かされたことなのである。

 

アウグスティヌスが、罪は人間本性における欠如や欠陥を明らかにするものだと考えていたのに対し、東方の伝統においては、エデンの園の充溢を欠如として知覚するということこそが罪が明らかにするものだと考えられていたのである。それは「自らの充溢と至福の状態を知の欠如の状態として知覚するということ」、すなわち「無知の知」を発見することこそが罪であったと言い換えることができるかもしれない。

以上のことからアウグスティヌスや東方の伝統から明らかになるのは、神学的な意味において衣服とは、欠如や欠陥を隠したり、「無知の知」の発見を隠す、「内面を覆うもの」つまり、拘束としての役割を果たしているということである。しかし、それでは現在の一般的な、つまりファッションの世界において、衣服とはどのように考えられているのだろうか。恐らく身体を蔽い、保護する身体の延長であると考えられているのではないだろうか。つまり「外面を覆うもの」としての役割だけを果たしていると言えるわけだが、面白いことに衣服は必ずしも身体を保護するだけのものだと言えない。

鷲田清和によれば、ハイヒールには身体を支えるものでありながら、わざわざ体勢を不安にするためだけに考案されたとしか言いようのないところがあり、またコルセットともなれば、身体の保護という目的から完全に逸脱し、身体の輪郭どころか内臓までデフォルメしてしまうのである。ここでの衣服は明らかに「身体を保護する衣服」のモデルからかけ離れている。それではなぜ人びとは身体的な苦痛や圧迫感を圧してまで衣服で身体を拘束するのであろうか。

そもそも身体それ自身も元来は自然にほかならない。外なる自然が恐れの対象であったり、制御不能であるのと同様に、身体も内部から主体を揺るがせたり、混乱させたりする、なにか訳のわからない存在である。それゆえにこの不安の対象としての身体に規則を与え、統制可能なものへと変換しようとする欲望が拘束としての衣服を必要とするのではないだろうか。つまり、ファッションの世界においてさえ、衣服は単純に身体を保護する機能だけを持つのではなく、神学的な意味において見られた「内面を覆うもの」としての拘束の機能も持っていると言える。


このように衣服とはアダムとイヴの時代から現在に至るまで「外面を覆うもの」であると同時に「内面を覆うもの」として二重の役割を持つ存在であったと言えるかもしれない。

アクアリウムの夜 両義性の反復と境界の消失


この作品は信用のおけない登場人物の語り(=両義性)の反復によって成立している。主人公とともに「カメラオブスキュラ」に訪れた高橋は作中内で霊界ラジオ(ラジオのホワイトノイズから言葉を聞き取るというもの)に夢中になる。彼は発狂して精神病院に収容されることになり(すぐに退院する)最後は何者かによって殺害されてしまう。彼の死後、生前に書いた手紙がかれのもとに届くのだが、少し長いがそれを引用しよう。

「僕の気が狂ったこと、広田はどんなふうに考えている?僕の想像では、きっとこうだーホワイト・ノイズを聞きすぎて、そのあげくに訳のわからないことを口走りはじめたのだと。でも、そうじゃない。精神に異常をきたしたという事実を否定しているんじゃないよ。確かに、僕は気がおかしくなってしまった。でも、いいかい、霊界ラジオ(略)は見事に作動したんだ。その発信する内容の重みに耐えかねて、僕の心はバランスを失って狂気におちこんでしまったんだ。(略)霊界ラジオからの通信を聞き取ったのは僕だけじゃないんだ。もう一人いる、それも広田の知ってる人だぜ。どう、驚いた?この人(残念ながら今のところ名前を出せないから、Xと呼ぶことにしよう。)は、僕の保存していたテープから通信を聞き取り、おまけに僕の書き写したノート類を全て読んでくれた。(略)Xは通信を全ては事実だと告げ、疑うのなら証拠を見せようとまでいうんだ。証拠というのは、いいかい、Xは金星人のいるところを知っている、だから僕をそこに案内してくれるってことなんだ。その場所を教えられたとき、僕は最初耳を疑ったけれど、やがて、これまでのこと全てががある意味できれいにつながっていくような気がした。(略)」

この手紙のエピソードが事実であるのか、高橋の妄想なのかは問題ではない。というより、事実か妄想か判断を下すことは作中の情報だけでは判断できない。ここで重要なのは高橋からの手紙=語りが信用のおけないものであるという事実である。そしてこのような信用のおけない語り(=両義性)は作中で絶えず反復される。

高橋の死に関わっていると思われるXを藤村さんは「やっぱり、話しておくほうがいいわね。別に隠していたわけじゃないの。でも、わたしの思いすごしだったかもしれないし、軽々しく口にしないほうがいいって思っていたんだけれど、でも事は重大だしね。(略)そのとき、あなたたちの学校の司書をしている遠藤英子さんが運転する車が通りすぎたのよ。それはたしか。ただ、一瞬のことだったし、わたしもぼんやりしていたから断言できないんだけれど、横の助手席に座って、いたのが、高橋くんみたいに思えたの…」と語る。ここでX=英子さんということになるのだが、英子さんは「藤村さんが何を考えているのかよく判るわ。わたしが高橋くんと一緒のところを見たって、あのひとは信じているにちがいないわ。わたしが高橋くんの詩に関わりがあると信じているのよ。もちろん、彼女に悪気はないんでしょう。だって、彼女は病気なんだから」と語る。藤村さんは妄想癖を持つために精神病院に通っているのだと。藤村さんは月二度店を休むのだが、通院しているのだと考えれば、英子さんの語りは正しいことになる。しかし、英子さんは白神教との繋がりや高橋との関わりを示唆する場面が幾度もあり、英子さんの語りも疑わしい。しかし、この二つの証言をどちらかが間違っている、正しいと判断する基準は高橋の手紙同様、もちろん存在しておらず、どちらも信用のおけない語り(=両義性)である。

こうした信用のおけない語り(=両義性)が反復される構造上、物語のどの語り(=部分)を虚構とするのか、現実とするのかという判断は読み手に委ねれるために、読み手は極めて恣意的な判断を強いられることになるのである。

そして物語の終盤において、主人公も高橋同様、発狂したかのような描写が挿入される。ここで主人公自体も信用のおけない語り手であったことが明らかになる。この作品は主人公の事後的な回想といった形式で物語が語られていたために、物語の始まりである、明治時代に栄えた新興宗教団体、白神教教主の出門鬼三郎(出門=デーモン?)に酷似した人物によって行われた「カメラオブスキュラ」であるはずのない水族館への地下階段を目撃したこと自体も、終盤の主人公の発狂により、もはや疑わしいものになる。物語が根底から揺らぐことになるのである。念のために繰り返すが、ここでは主人公が発狂したのか、していないのかということが問題なのではなく、それが作中で幾度も反復される信用できない語り(=両義性)同様に判断できないことが問題なのである。そして、物語(=全体)はエピソード(=部分)から構成されるものであると規定した場合、この物語は無数の規定しえない部分(=エピソード)のために、全体(=物語)を規定することも不可能になるのである。

 

アクアリウムの夜において問題となるのは、全体が虚構なのか現実なのかを判断できないという点においてではなく、両義性の反復により、どこまでを虚構とするのか、どこまでを現実とするのかという線引きが不可能である点、つまり境界の消失にある。夢オチ的方法に見られる「全体=現実」なのか「全体=虚構」なのかといった二通りだけの判断を読み手に委ねるのと根本的に違うのはこの点においてである。無数の証言の両義性により、無数の判断が可能であるため、この物語は不気味な閉塞感や不安を生み出すのである。