石原吉郎における 「個人と集団」

 

 1942年ソ連内務省軍によって逮捕され、1953年まで強制収容に収監された(注1)詩人、石原吉郎の「個人と集団」の問題ついて考察する。

石原吉郎における単独者の概念について思考する時「ペシミストの勇気」の存在を無視することはできないだろう。ペシミストの勇気とは石原吉郎の友人、鹿野武一について書かれた文章である。収容所では五列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進するようになっており、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなされその場で射殺してもいい規則となっていた。だが実際は逃亡を試みて囚人が射殺されることはなく、ほとんどは行進中につまずくか足を滑らせて、列外へよろめいたために射殺が起こっていたのである。したがって整列時、囚人にとって中間の三列に割り込むことが非常に重要な問題となっていた。だが石原の友人鹿野武一はいかなる場合でも進んで外側の列に並んだのである。石原は鹿野のこうした行動をペシミストの勇気と呼ぶ。石原は鹿野の行為を

 

 

加害と被害という集団的発想からはっきりと自己を隔絶することによって、ペシミストとしての明晰さと精神的自立を獲得したのだと私は考える(望郷と海-ペシミストの勇気)

 

 

と述べている。これを希望を捨てて最悪の場所に進んで選択する勇気という意味で捉えるのは間違いであろう。ペシミストの勇気とはそうした勇気ではなく、あらゆる環境を流動的で平等なもの(ここでは加害と被害の関係が全くの偶然により入れ替わる状況)と見なす勇気のことである。(注2)もっと言えば、加害と被害の流動のなかで、加害者を自己に発見し、衝撃を受けただ一人、何も告発することなく集団を去る、そのうしろ姿こそが勇気の証なのだ。だが石原はそうした勇気は不特定多数の何も救うことはないと言い切る。そこで救われるのは単独者としての自己の位置なのであると。しかし「単独者としての自己の位置を守る」ということは何を意味しているのだろうか。この言葉の意味を理解するには石原吉郎にとって「集団と個人」が一体どのように捉えられているのかを理解する必要があるだろう。
石原吉郎は最後までシベリア抑留の経験を告発することがなかった。それは「連帯において被害を平均化」する告発を石原は避けようとしたからである。

 

 

私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに〈告発〉の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。それは声となることによって、そののっぴきならない真実が一挙にうしなわれ、告発となって顕在化することによって、告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙である。(ペシミストの勇気)

 

 

告発をせず沈黙すること。それが個人が個人であることを保証する最後の砦なのではないだろうか。主体が何者にも語りえない、理解されない出来事を被害の連帯により、告発することで決定的な-それこそ個人の存在と呼んでいい-なにかが失われてしまう。そのことを石原は鋭く捉えていたのではないかと感じる。ペシミストの勇気が「単独者としての自己の位置を守る」ことに繋がるのは、「告発しないことが個人を個人たりうるものにしている」からではないだろうか。
こうしたことから、石原吉郎にとって「個が集団の中に消えていく」ことが重要な問題になっていたのではないかと考える。「確認されない死のなかで」では

 

 

ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することはなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばなければならないものなのだ。(確認されない死のなかで)

 

 

という風に語られており、また「詩と信仰と断念と」の中では

 

 

人間が誰に知られない場所で死ななければならない時、さいごにその人にのこされる希求、どうしようもない願いとは何か、ということであります。おそらくそれは、彼がその死の瞬間まで存在したことを誰かに伝えたいという願いであり、彼がまぎれもない彼として死んだという事実を、誰でもいい、だれかに伝えたいという衝動ではないかと思います。(略) しかも、それを確認させるための手段として、最後に彼に残されたものは彼の姓名だけだという事実ほど救いのない、絶望的なものはないだろうと思います。(詩と信仰と断念と)

 

 

と語られているが、これらも「個が集団の中に消えていく」の問題が間違いなく通奏低音として流れている。数ではなく名を呼ばれなければいけない。それは個が集団の中に消えていく、消されることに対する石原の批判なのではないか。
シベリア抑留や戦争、戦後を通じて石原吉郎が見出した問題。それは集団や安易な連帯の中に消えていく個人を個人たらしめているなにかを問い、思考することではないだろうか。

 

 

注1 石川巧・川口隆行編『戦争を〈読む〉』(ひつじ書房 / 2013年)

 

注2 中島一夫『収容所文学論』(論創社 / 2008年) 媒介と責任

 

参考文献

 

石原吉郎『望郷と海』(みすず書房 / 2012年)

石原吉郎石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫 / 2005年)

中島一夫『収容所文学論』(論創社 / 2008年)

勢古浩爾石原吉郎』(飢餓陣営叢書 / 2013年)

石川巧・川口隆行編『戦争を〈読む〉』(ひつじ書房 / 2013年)

 

衣服の意味

 アダムとイヴとは旧約聖書『創世記』に記された、最初の人間である。この二人をテーマにした芸術作品は数多い。いくつか例を挙げれば、絵画では、ミケランジェロ(1475-1564)による「アダムの創造」と「イヴの創造」(1508-12年、ヴァチカン、システィーナ礼拝堂)やパウロ・ヴェロネーゼ(1528-88)による「イヴの創造」(1572年頃、シカゴ、アート・インスティテュート)、文学では、イギリスの詩人ジョン・ミルトン(1608-74)による「失楽園」(1667年)などがそうだろう。また初期のSF小説にもイヴがモチーフとなったヴィリエ・ド・リラダン(1838-89)の「未来のイヴ」(1886年)などがある。このようなアダムとイヴをテーマやモチーフにした作品は数多く、二人の物語がのちの世界に与えた影響は計り知れない。そうした視点から二人をめぐる物語が、文化、思想、文学・美術作品にいかに多大な影響を及ぼしたかを岡田温司著 アダムとイブ 語り継がれる「中心の神話」は扱っている。


堕落する以前、二人は裸であった。しかし、二人は自分たちが裸であることを恥じることはなかった。


アガンベンによれば二人は裸でありながら裸ではなかったのである。なぜなら二人は神の恩寵という衣服を身に纏っていたからであり、本当の意味で二人が裸になるのは、堕落後である。「恥ずかしさ」が現れるのは、神の衣服である恩恵を奪われた後だが、それではなぜ「恥ずかしさ」が現れたのか。つまり、裸であること=恥ずかしい という図式の成立はどのようにして成立したのであろうか。


「(…)二人の目は開かれていたが、恩寵の衣服のもと何が二人に授けられていたのかを知るほどには、開かれていなかった。なぜなら、意志にたいする器官の反乱を二人は知らなかったからである。ひとたびこの恩寵が失われるや、罪にふさわしい二人の不従順を罰するために、肉体の衝動のなかに新たな淫らさが突如として発生した。このために二人の裸は恥ずべきものとなり、二人はそれを意識し、当惑することになったのである」


アウグスティヌスは「裸=恥ずかしさ」の起源について、恩寵の衣服のもとで欲望や生殖器の制御が支えられていたために、恩寵の衣服がひとたび失われてしまえば、制御は不可能になる、そして二人が欲望や生殖器を制御できなくなったがゆえに裸を恥ずべきものとして認識するに至ったのだと考える。しかし、ここで興味深いのは、アウグスティヌスにとって、恩寵の衣服が包み隠すのは、このような腐敗した本性であるのに対し、大バシレイオスやダマスカスのヨアンネスに代表される東方の伝統においてはその認識が異なる点である。


罪を犯す以前、人間は無為(schole)と充溢の状況のうちに生きていた。じつのところ、目の開かれとは、魂の目の閉ざされを意味しており、さらには、みずからの充溢と至福の状態を、無力の状態として、atechnia、すなわち知の欠如の状態として、知覚することを意味している。したがって、罪が明らかにするものとは、恩寵の衣服に覆われていた、人間本性における欠如や欠陥ではない。反対に、エデンの園の状況を決定づけていた充溢をむしろ欠如として知覚するということ、それこそが、罪によって明かされたことなのである。

 

アウグスティヌスが、罪は人間本性における欠如や欠陥を明らかにするものだと考えていたのに対し、東方の伝統においては、エデンの園の充溢を欠如として知覚するということこそが罪が明らかにするものだと考えられていたのである。それは「自らの充溢と至福の状態を知の欠如の状態として知覚するということ」、すなわち「無知の知」を発見することこそが罪であったと言い換えることができるかもしれない。

以上のことからアウグスティヌスや東方の伝統から明らかになるのは、神学的な意味において衣服とは、欠如や欠陥を隠したり、「無知の知」の発見を隠す、「内面を覆うもの」つまり、拘束としての役割を果たしているということである。しかし、それでは現在の一般的な、つまりファッションの世界において、衣服とはどのように考えられているのだろうか。恐らく身体を蔽い、保護する身体の延長であると考えられているのではないだろうか。つまり「外面を覆うもの」としての役割だけを果たしていると言えるわけだが、面白いことに衣服は必ずしも身体を保護するだけのものだと言えない。

鷲田清和によれば、ハイヒールには身体を支えるものでありながら、わざわざ体勢を不安にするためだけに考案されたとしか言いようのないところがあり、またコルセットともなれば、身体の保護という目的から完全に逸脱し、身体の輪郭どころか内臓までデフォルメしてしまうのである。ここでの衣服は明らかに「身体を保護する衣服」のモデルからかけ離れている。それではなぜ人びとは身体的な苦痛や圧迫感を圧してまで衣服で身体を拘束するのであろうか。

そもそも身体それ自身も元来は自然にほかならない。外なる自然が恐れの対象であったり、制御不能であるのと同様に、身体も内部から主体を揺るがせたり、混乱させたりする、なにか訳のわからない存在である。それゆえにこの不安の対象としての身体に規則を与え、統制可能なものへと変換しようとする欲望が拘束としての衣服を必要とするのではないだろうか。つまり、ファッションの世界においてさえ、衣服は単純に身体を保護する機能だけを持つのではなく、神学的な意味において見られた「内面を覆うもの」としての拘束の機能も持っていると言える。


このように衣服とはアダムとイヴの時代から現在に至るまで「外面を覆うもの」であると同時に「内面を覆うもの」として二重の役割を持つ存在であったと言えるかもしれない。

アクアリウムの夜 両義性の反復と境界の消失


この作品は信用のおけない登場人物の語り(=両義性)の反復によって成立している。主人公とともに「カメラオブスキュラ」に訪れた高橋は作中内で霊界ラジオ(ラジオのホワイトノイズから言葉を聞き取るというもの)に夢中になる。彼は発狂して精神病院に収容されることになり(すぐに退院する)最後は何者かによって殺害されてしまう。彼の死後、生前に書いた手紙がかれのもとに届くのだが、少し長いがそれを引用しよう。

「僕の気が狂ったこと、広田はどんなふうに考えている?僕の想像では、きっとこうだーホワイト・ノイズを聞きすぎて、そのあげくに訳のわからないことを口走りはじめたのだと。でも、そうじゃない。精神に異常をきたしたという事実を否定しているんじゃないよ。確かに、僕は気がおかしくなってしまった。でも、いいかい、霊界ラジオ(略)は見事に作動したんだ。その発信する内容の重みに耐えかねて、僕の心はバランスを失って狂気におちこんでしまったんだ。(略)霊界ラジオからの通信を聞き取ったのは僕だけじゃないんだ。もう一人いる、それも広田の知ってる人だぜ。どう、驚いた?この人(残念ながら今のところ名前を出せないから、Xと呼ぶことにしよう。)は、僕の保存していたテープから通信を聞き取り、おまけに僕の書き写したノート類を全て読んでくれた。(略)Xは通信を全ては事実だと告げ、疑うのなら証拠を見せようとまでいうんだ。証拠というのは、いいかい、Xは金星人のいるところを知っている、だから僕をそこに案内してくれるってことなんだ。その場所を教えられたとき、僕は最初耳を疑ったけれど、やがて、これまでのこと全てががある意味できれいにつながっていくような気がした。(略)」

この手紙のエピソードが事実であるのか、高橋の妄想なのかは問題ではない。というより、事実か妄想か判断を下すことは作中の情報だけでは判断できない。ここで重要なのは高橋からの手紙=語りが信用のおけないものであるという事実である。そしてこのような信用のおけない語り(=両義性)は作中で絶えず反復される。

高橋の死に関わっていると思われるXを藤村さんは「やっぱり、話しておくほうがいいわね。別に隠していたわけじゃないの。でも、わたしの思いすごしだったかもしれないし、軽々しく口にしないほうがいいって思っていたんだけれど、でも事は重大だしね。(略)そのとき、あなたたちの学校の司書をしている遠藤英子さんが運転する車が通りすぎたのよ。それはたしか。ただ、一瞬のことだったし、わたしもぼんやりしていたから断言できないんだけれど、横の助手席に座って、いたのが、高橋くんみたいに思えたの…」と語る。ここでX=英子さんということになるのだが、英子さんは「藤村さんが何を考えているのかよく判るわ。わたしが高橋くんと一緒のところを見たって、あのひとは信じているにちがいないわ。わたしが高橋くんの詩に関わりがあると信じているのよ。もちろん、彼女に悪気はないんでしょう。だって、彼女は病気なんだから」と語る。藤村さんは妄想癖を持つために精神病院に通っているのだと。藤村さんは月二度店を休むのだが、通院しているのだと考えれば、英子さんの語りは正しいことになる。しかし、英子さんは白神教との繋がりや高橋との関わりを示唆する場面が幾度もあり、英子さんの語りも疑わしい。しかし、この二つの証言をどちらかが間違っている、正しいと判断する基準は高橋の手紙同様、もちろん存在しておらず、どちらも信用のおけない語り(=両義性)である。

こうした信用のおけない語り(=両義性)が反復される構造上、物語のどの語り(=部分)を虚構とするのか、現実とするのかという判断は読み手に委ねれるために、読み手は極めて恣意的な判断を強いられることになるのである。

そして物語の終盤において、主人公も高橋同様、発狂したかのような描写が挿入される。ここで主人公自体も信用のおけない語り手であったことが明らかになる。この作品は主人公の事後的な回想といった形式で物語が語られていたために、物語の始まりである、明治時代に栄えた新興宗教団体、白神教教主の出門鬼三郎(出門=デーモン?)に酷似した人物によって行われた「カメラオブスキュラ」であるはずのない水族館への地下階段を目撃したこと自体も、終盤の主人公の発狂により、もはや疑わしいものになる。物語が根底から揺らぐことになるのである。念のために繰り返すが、ここでは主人公が発狂したのか、していないのかということが問題なのではなく、それが作中で幾度も反復される信用できない語り(=両義性)同様に判断できないことが問題なのである。そして、物語(=全体)はエピソード(=部分)から構成されるものであると規定した場合、この物語は無数の規定しえない部分(=エピソード)のために、全体(=物語)を規定することも不可能になるのである。

 

アクアリウムの夜において問題となるのは、全体が虚構なのか現実なのかを判断できないという点においてではなく、両義性の反復により、どこまでを虚構とするのか、どこまでを現実とするのかという線引きが不可能である点、つまり境界の消失にある。夢オチ的方法に見られる「全体=現実」なのか「全体=虚構」なのかといった二通りだけの判断を読み手に委ねるのと根本的に違うのはこの点においてである。無数の証言の両義性により、無数の判断が可能であるため、この物語は不気味な閉塞感や不安を生み出すのである。