アクアリウムの夜 両義性の反復と境界の消失


この作品は信用のおけない登場人物の語り(=両義性)の反復によって成立している。主人公とともに「カメラオブスキュラ」に訪れた高橋は作中内で霊界ラジオ(ラジオのホワイトノイズから言葉を聞き取るというもの)に夢中になる。彼は発狂して精神病院に収容されることになり(すぐに退院する)最後は何者かによって殺害されてしまう。彼の死後、生前に書いた手紙がかれのもとに届くのだが、少し長いがそれを引用しよう。

「僕の気が狂ったこと、広田はどんなふうに考えている?僕の想像では、きっとこうだーホワイト・ノイズを聞きすぎて、そのあげくに訳のわからないことを口走りはじめたのだと。でも、そうじゃない。精神に異常をきたしたという事実を否定しているんじゃないよ。確かに、僕は気がおかしくなってしまった。でも、いいかい、霊界ラジオ(略)は見事に作動したんだ。その発信する内容の重みに耐えかねて、僕の心はバランスを失って狂気におちこんでしまったんだ。(略)霊界ラジオからの通信を聞き取ったのは僕だけじゃないんだ。もう一人いる、それも広田の知ってる人だぜ。どう、驚いた?この人(残念ながら今のところ名前を出せないから、Xと呼ぶことにしよう。)は、僕の保存していたテープから通信を聞き取り、おまけに僕の書き写したノート類を全て読んでくれた。(略)Xは通信を全ては事実だと告げ、疑うのなら証拠を見せようとまでいうんだ。証拠というのは、いいかい、Xは金星人のいるところを知っている、だから僕をそこに案内してくれるってことなんだ。その場所を教えられたとき、僕は最初耳を疑ったけれど、やがて、これまでのこと全てががある意味できれいにつながっていくような気がした。(略)」

この手紙のエピソードが事実であるのか、高橋の妄想なのかは問題ではない。というより、事実か妄想か判断を下すことは作中の情報だけでは判断できない。ここで重要なのは高橋からの手紙=語りが信用のおけないものであるという事実である。そしてこのような信用のおけない語り(=両義性)は作中で絶えず反復される。

高橋の死に関わっていると思われるXを藤村さんは「やっぱり、話しておくほうがいいわね。別に隠していたわけじゃないの。でも、わたしの思いすごしだったかもしれないし、軽々しく口にしないほうがいいって思っていたんだけれど、でも事は重大だしね。(略)そのとき、あなたたちの学校の司書をしている遠藤英子さんが運転する車が通りすぎたのよ。それはたしか。ただ、一瞬のことだったし、わたしもぼんやりしていたから断言できないんだけれど、横の助手席に座って、いたのが、高橋くんみたいに思えたの…」と語る。ここでX=英子さんということになるのだが、英子さんは「藤村さんが何を考えているのかよく判るわ。わたしが高橋くんと一緒のところを見たって、あのひとは信じているにちがいないわ。わたしが高橋くんの詩に関わりがあると信じているのよ。もちろん、彼女に悪気はないんでしょう。だって、彼女は病気なんだから」と語る。藤村さんは妄想癖を持つために精神病院に通っているのだと。藤村さんは月二度店を休むのだが、通院しているのだと考えれば、英子さんの語りは正しいことになる。しかし、英子さんは白神教との繋がりや高橋との関わりを示唆する場面が幾度もあり、英子さんの語りも疑わしい。しかし、この二つの証言をどちらかが間違っている、正しいと判断する基準は高橋の手紙同様、もちろん存在しておらず、どちらも信用のおけない語り(=両義性)である。

こうした信用のおけない語り(=両義性)が反復される構造上、物語のどの語り(=部分)を虚構とするのか、現実とするのかという判断は読み手に委ねれるために、読み手は極めて恣意的な判断を強いられることになるのである。

そして物語の終盤において、主人公も高橋同様、発狂したかのような描写が挿入される。ここで主人公自体も信用のおけない語り手であったことが明らかになる。この作品は主人公の事後的な回想といった形式で物語が語られていたために、物語の始まりである、明治時代に栄えた新興宗教団体、白神教教主の出門鬼三郎(出門=デーモン?)に酷似した人物によって行われた「カメラオブスキュラ」であるはずのない水族館への地下階段を目撃したこと自体も、終盤の主人公の発狂により、もはや疑わしいものになる。物語が根底から揺らぐことになるのである。念のために繰り返すが、ここでは主人公が発狂したのか、していないのかということが問題なのではなく、それが作中で幾度も反復される信用できない語り(=両義性)同様に判断できないことが問題なのである。そして、物語(=全体)はエピソード(=部分)から構成されるものであると規定した場合、この物語は無数の規定しえない部分(=エピソード)のために、全体(=物語)を規定することも不可能になるのである。

 

アクアリウムの夜において問題となるのは、全体が虚構なのか現実なのかを判断できないという点においてではなく、両義性の反復により、どこまでを虚構とするのか、どこまでを現実とするのかという線引きが不可能である点、つまり境界の消失にある。夢オチ的方法に見られる「全体=現実」なのか「全体=虚構」なのかといった二通りだけの判断を読み手に委ねるのと根本的に違うのはこの点においてである。無数の証言の両義性により、無数の判断が可能であるため、この物語は不気味な閉塞感や不安を生み出すのである。