衣服の意味

 アダムとイヴとは旧約聖書『創世記』に記された、最初の人間である。この二人をテーマにした芸術作品は数多い。いくつか例を挙げれば、絵画では、ミケランジェロ(1475-1564)による「アダムの創造」と「イヴの創造」(1508-12年、ヴァチカン、システィーナ礼拝堂)やパウロ・ヴェロネーゼ(1528-88)による「イヴの創造」(1572年頃、シカゴ、アート・インスティテュート)、文学では、イギリスの詩人ジョン・ミルトン(1608-74)による「失楽園」(1667年)などがそうだろう。また初期のSF小説にもイヴがモチーフとなったヴィリエ・ド・リラダン(1838-89)の「未来のイヴ」(1886年)などがある。このようなアダムとイヴをテーマやモチーフにした作品は数多く、二人の物語がのちの世界に与えた影響は計り知れない。そうした視点から二人をめぐる物語が、文化、思想、文学・美術作品にいかに多大な影響を及ぼしたかを岡田温司著 アダムとイブ 語り継がれる「中心の神話」は扱っている。


堕落する以前、二人は裸であった。しかし、二人は自分たちが裸であることを恥じることはなかった。


アガンベンによれば二人は裸でありながら裸ではなかったのである。なぜなら二人は神の恩寵という衣服を身に纏っていたからであり、本当の意味で二人が裸になるのは、堕落後である。「恥ずかしさ」が現れるのは、神の衣服である恩恵を奪われた後だが、それではなぜ「恥ずかしさ」が現れたのか。つまり、裸であること=恥ずかしい という図式の成立はどのようにして成立したのであろうか。


「(…)二人の目は開かれていたが、恩寵の衣服のもと何が二人に授けられていたのかを知るほどには、開かれていなかった。なぜなら、意志にたいする器官の反乱を二人は知らなかったからである。ひとたびこの恩寵が失われるや、罪にふさわしい二人の不従順を罰するために、肉体の衝動のなかに新たな淫らさが突如として発生した。このために二人の裸は恥ずべきものとなり、二人はそれを意識し、当惑することになったのである」


アウグスティヌスは「裸=恥ずかしさ」の起源について、恩寵の衣服のもとで欲望や生殖器の制御が支えられていたために、恩寵の衣服がひとたび失われてしまえば、制御は不可能になる、そして二人が欲望や生殖器を制御できなくなったがゆえに裸を恥ずべきものとして認識するに至ったのだと考える。しかし、ここで興味深いのは、アウグスティヌスにとって、恩寵の衣服が包み隠すのは、このような腐敗した本性であるのに対し、大バシレイオスやダマスカスのヨアンネスに代表される東方の伝統においてはその認識が異なる点である。


罪を犯す以前、人間は無為(schole)と充溢の状況のうちに生きていた。じつのところ、目の開かれとは、魂の目の閉ざされを意味しており、さらには、みずからの充溢と至福の状態を、無力の状態として、atechnia、すなわち知の欠如の状態として、知覚することを意味している。したがって、罪が明らかにするものとは、恩寵の衣服に覆われていた、人間本性における欠如や欠陥ではない。反対に、エデンの園の状況を決定づけていた充溢をむしろ欠如として知覚するということ、それこそが、罪によって明かされたことなのである。

 

アウグスティヌスが、罪は人間本性における欠如や欠陥を明らかにするものだと考えていたのに対し、東方の伝統においては、エデンの園の充溢を欠如として知覚するということこそが罪が明らかにするものだと考えられていたのである。それは「自らの充溢と至福の状態を知の欠如の状態として知覚するということ」、すなわち「無知の知」を発見することこそが罪であったと言い換えることができるかもしれない。

以上のことからアウグスティヌスや東方の伝統から明らかになるのは、神学的な意味において衣服とは、欠如や欠陥を隠したり、「無知の知」の発見を隠す、「内面を覆うもの」つまり、拘束としての役割を果たしているということである。しかし、それでは現在の一般的な、つまりファッションの世界において、衣服とはどのように考えられているのだろうか。恐らく身体を蔽い、保護する身体の延長であると考えられているのではないだろうか。つまり「外面を覆うもの」としての役割だけを果たしていると言えるわけだが、面白いことに衣服は必ずしも身体を保護するだけのものだと言えない。

鷲田清和によれば、ハイヒールには身体を支えるものでありながら、わざわざ体勢を不安にするためだけに考案されたとしか言いようのないところがあり、またコルセットともなれば、身体の保護という目的から完全に逸脱し、身体の輪郭どころか内臓までデフォルメしてしまうのである。ここでの衣服は明らかに「身体を保護する衣服」のモデルからかけ離れている。それではなぜ人びとは身体的な苦痛や圧迫感を圧してまで衣服で身体を拘束するのであろうか。

そもそも身体それ自身も元来は自然にほかならない。外なる自然が恐れの対象であったり、制御不能であるのと同様に、身体も内部から主体を揺るがせたり、混乱させたりする、なにか訳のわからない存在である。それゆえにこの不安の対象としての身体に規則を与え、統制可能なものへと変換しようとする欲望が拘束としての衣服を必要とするのではないだろうか。つまり、ファッションの世界においてさえ、衣服は単純に身体を保護する機能だけを持つのではなく、神学的な意味において見られた「内面を覆うもの」としての拘束の機能も持っていると言える。


このように衣服とはアダムとイヴの時代から現在に至るまで「外面を覆うもの」であると同時に「内面を覆うもの」として二重の役割を持つ存在であったと言えるかもしれない。