三島由紀夫と古典劇

 能作品、綾鼓の意義と現在の能作品の受容について三島由紀夫を通して考察する。


 綾鼓では女御に惚れ込んだ老人が鳴るはずのない綾鼓を鳴らすことができれば、女御の姿を見ることができるという内容の作品である。しかしこの作品があまりに残酷なのは綾鼓がどうしても鳴らないというところにある。つまり初めから老人の愛が報われることなく、「不可能」が決定しているのである。老人は死に、怨霊となり、やはり綾鼓を打ち続けるが、当然鳴ることはなく、最後は願いが叶うことはなく池へと消えていく。最初から最後まで存在しているのは否定だけである。この作品の存在意義とは一体なんであろうか。綾鼓では


「そもそも、世の中というものは、万事、禍幸や吉凶がいつ訪れるかわからないものです。年月はあっというまに過ぎてゆくといわれていますが、まさにそのとおりで、時間はどんどん過ぎてゆきます。しかし、わたくしたちが死後に行く所や、また、いつまでの命なのか、それを誰も教えてくれないのは、残念なけとです。世の中がこんなものだとわかっていれば、このように恋などに迷わなかったろうに。」(綾鼓)


といったセリフが登場する。人はいつ幸せに出会うのか、いつ不幸に見舞われるのか、いつ死ぬか、そうしたことは誰にもわからない。必要ではないこと、無駄なこと、虚しいことに勤しんでいる時に死ぬこともあるだろう。それゆえに我々は現在の自分の生き方、行動を見直さなければいけない。そうしたことを感じさせるセリフだと言えるだろう。また怨霊となって現れた老人に女御は


「地獄の刹鬼である獄卒の攻めもこのようなものかと思われるばかりです。しかし、骨をも砕く火車による地獄の呵責もこれほどではあるまい。ああ、恐ろしい。因果とはいえ、わたくしはどうなるのでしょうか。」(綾鼓)


と訴える。それに対して老人は


「このように因果応報ははっきりと現れるものです。それが目のあたりに現れたのです。」(綾鼓)


と答える。不可能である綾の鼓を老人に打たせようとした女御は老人の怨霊に付きまとわれ、疲労困憊し、恐ろしさに疲弊する。それは間違いなく、女御の仕打ちの因果応報である。

 綾鼓の意義とはなんであるか。それは死を見据え、今をどう生きるのかという問題を提起し、また自分の行ったことは必ず自分に返ってくる、因果応報であるということを我々に理解させてくれるところにあると言えるだろう。そうした点から綾鼓は非常に寓話的な物語であり、示唆に溢れた作品であると言える。
ここで日本を代表する作家である三島由紀夫は、否定の物語であり、教訓的な綾鼓から美を見出し、自ら再構築し、さらなる美を表現しようとしたことについて言及したいと思う。

 

三島由紀夫の綾鼓では、向かいの窓に垣間見た身分も年齢も違う貴婦人の華子に、法律事務所の老小使の岩吉が恋をする。だが恋を嘲る、華子の取り巻きの青年たちと、そのからかいを黙認したらしい華子に絶望した岩吉は投身自殺をする。そうしてこの世を去った岩吉は亡霊となり、華子のもとに現れる。そして綾の鼓を鳴らそうと亡霊は鼓を打つのだが、華子に「聞こえない」と言い張られる。だが、能作品の綾鼓と違うのは綾鼓が''鳴る''ということである。しかし絶望的なのはそれが最後まで''聞こえない''と言い張られてしまうことである。また亡霊が消えていく最後に「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさへすれば」という一言が付け加わっていることが注目に値すると言えるだろう。つまり能の綾鼓では最初から最後まで徹底的な否定のみがあったが、三島由紀夫の綾鼓においては、最後に一打ちさえしていればと思わせる、どうにもならないような絶望が存在している。こうした内容は三島由紀夫の綾鼓が能の綾鼓よりも否定的ではないということを意味しない。鳴っていたにも関わらず「聞こえない」と言い張られ、最後には「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさへすれば」と言われる残酷さ、それは実際にあと一回打っていたとしてもおそらく「聞こえない」と言われていたことにある。つまり、聞こえるのは怨霊が消える時であり、あと一打ちは逃げ水のごとく近づくたびに遠ざかり、永遠に聞こえることはないのである。三島由紀夫の綾鼓と能の綾鼓においての否定性の決定的な差異とは、能の綾鼓が「鳴らない綾鼓を鳴らすことができれば」なのに対し、三島由紀夫の綾鼓は「鳴ろうが、鳴らまいが''聞こえる''ことはない」というところにあるのである。そういったことから三島由紀夫の綾鼓はより否定性が徹底された綾鼓であると言えるだろう。ではなぜ三島由紀夫はこうした綾鼓を書いたのであろうか。三島由紀夫の小説「禁色」の中に

 

「…さうして、美とは、いいかね、美とは到達できない此岸なのだ。さうではないか?」(禁色)

 

という文章が登場するが、これは三島由紀夫の美の捉え方だと考えいいだろう。つまり三島由紀夫は能作品綾鼓に美を見出し、現代版を書くことによって更なる美を追求しようと試みたのではないだろうか?こうした三島由紀夫による試みは、本来の能作品の意義と現代の能作品の受容を考える上では注目に値する。


参考文献

著者不明 『綾鼓』

監修 梅原猛観世清和 『翁と観阿弥 能の誕生 』角川学芸出発 2013年

田村景子 『三島由紀夫能楽勉誠出版 2012年

三島由紀夫『禁色』新潮社 1964年